福福生活next

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

親鸞(2)

新聞小説「親鸞」は一挙に10年の月日が流れてしまったけれど、私はまだ、子供の親鸞が見た都の風景に思いを馳せている。

平安の時代の都はかなり不衛生だった模様。
餓死や病死の屍体がそこらに打ち捨ててあったり、今でいうトイレというものはなくて、道端で(ある程度場所は決まってただろうけど)用を足していた。
もちろんお風呂なんてなかったろうし。
まさに不浄。
だが、人間の生老病死というものが身近に生々しく存在した時代だった。


「九相図」というものかある。
美女が死んで、体が腐り、虫が涌き、あげく獣や鳥についばまれ、果ては白骨となる様子を九つの絵にしたもの。
こういうものを見せて仏教の無常の教えを説いたというのもすごいが、現代ではあまりに抽象的な『死』というものがリアルに存在していたことに衝撃を受けた。
こういう様子を日常的に見ていれば、それこそ「この世は地獄」と思っただろう。

初めて九相図や地獄草紙を見たのは小学校の高学年くらいだったと思う。
その頃、芥川龍之介の「羅生門」も読んだ。
楼閣に累々と重なった屍体。死臭に満ちた空間で屍体の髪を抜く老婆。
生きていくために時に人は手段を選ばなくなる。
こんな暗い時代で仏教がどのような役割を果たし、どう発展したのか、ふと考える。

仏教が宗教として発展したのは『リアルな死』が存在した時代だったからだと思う。
江戸時代に入ってからは坊主の存在は現代と大きくは変わらない。
すでに葬式や法事を行うのが主な仕事になってたはず。
当時は土葬だったといっても、人々は中世や戦乱期のように物のように朽ち果てる屍体を見ることはなかった。
そこには、中世のように世間を動かす大きなうねりのような信仰はもはや存在しない。


現在「親鸞」では現実世界から離れた場所で主人公は修行の日々を送っている。
このあと現実世界に戻った主人公がどんなものを見、なにを考えるのか、今から楽しみだ。
私の宗教観や中世への興味がさらに刺激されることを期待している。

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバックURLはこちら
http://hanamame.blog10.fc2.com/tb.php/584-c6ae569e
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)

FC2Ad

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。